デニス・テン選手の軌跡を辿って

フィギュアスケート応援

ヤグディンナビゲーター追悼番組

 

日本時間の8月8日23時55分から、ロシアで放送されたテンくんの追悼番組。

 

そのニュース記事を産経新聞の元モスクワ支局長だったMasaaki Sasakiさんという方がご紹介してくれています。

 

↓こちらがニュース記事

『オリンピックチャンピオンは、カザフスタンの悲劇的なフィギュアスケーターの記憶のための特別なテレビ番組を制作した』(8月8日付)

f:id:rainbowpower:20180810170010j:image

年齢の違いにもかかわらず、デニスとアレクセイは親しい友人でした。写真:instagram.com

 

【記事の翻訳】

ヤグディン:デニスは育ちの良い人間だった。僕たちは友人だったにも関わらず、彼は僕のことをいつも「父さん」とか「ハンサム」と呼んでいた。「アレクセイ父さん、あなたに質問がある!」なんていう風に言ってくることもあった。デニスは思いやりがあって、親切だった。僕が彼の故郷に訪れた際には、セミナーの時でもホテルの一階のカフェでコーヒーと一緒に僕のために待っていることを僕はずっと知っていた。

デニスの功績は皆に知られているが、実際の彼はどんな人だった?

ヤグディン: 彼は稀な選手だった。人々はスポーツに人生をかけて、学問を犠牲にしがちだ。けれどデニスは非常に教養のある人だった。スポーツ観光アカデミーを赤い卒業証書(優等)で卒業し、さらに大学のビジネススクールに進んだ。詩を書いたり、写真撮影にも熱中していた。デニスはモスクワでの映画脚本のコンペにも参加したが、中でも彼の脚本は最高だった。カザフスタンの映画監督のベクマンベトフはデニスの脚本を基に映画を撮ろうとしている。デニスは子供の頃、音楽学校に通い、合唱団で歌っていた。後に音楽を書くようになった。これを話すのはつらいが、デニスの葬儀で彼の書いた曲が鳴り響いていた。

-タラソワは彼の死の直前、彼の母親と話していたそうだが?

ヤグディン: 正直言うと、僕たちは悲劇の前日、連絡を取り合っていた。デニスは夕方、僕に仕事に関する質問をいくらかしてきた。僕は考える時間を取り、翌日になって返信した。僕が返事を書いたのは12時7分。カザフスタンの現地時間は15時7分。デニスはその時すでに死の淵にいたんだ。それからぴったり数分後、カザフスタンの知り合いから電話があり、デニスが病院にいると言ってきた。

捜査の進展を気にしているか?

ヤグ:この事件の捜査はカザフスタンで高度に管理されている。犯人は翌日には逮捕され、今は事件のすべてを目撃していたが通報しなかった女が逮捕された。

彼女は事件を前もって知っていたのか?

僕は話すことができない。しかし、車のミラーは日々奪い取られている。とても残念なことに、白昼3時、街の中心地で忌まわしい鏡が人の命を奪った。僕はデニスの友人の1人が、彼はただの人ではなく偉大な人だったと言っていたのが印象に残った。現状、何も変わっていないのがとても残念でならない。

 

(翻訳はゆらさんのツイートよりお借りしましたhttps://twitter.com/tamayura_yura/status/1027557699125268482?s=21

 

 

(その他大雑把なところは翻訳アプリ)

(ロシア語を辞書引きしたもののメモ:телеизорテレビ、новости24ニュース24、комсомольская правдаコムソモルの真実、открыть開いた、авг8月、АЛЕКСЕЙ ЯГУДИН:アレクセイヤグディン

 

 

#ヤグディンとの信頼関係

#親切さ

#教養あるアスリート

#詩人、写真家、シンガーソングライター

#モスクワの映画脚本のコンペに参加